岡本太郎記念館で岡本太郎のパワーに触れてみよう!

 

岡本太郎記念館は、青山の骨董通りから一本裏手の通りに建つ、岡本太郎の自宅兼アトリエだった建物を利用したミニ美術館です。

岡本太郎記念館

館内や庭に飾られた岡本太郎のアート作品を見たら、きっと元気になること間違いなしです。

岡本太郎について

岡本太郎は、漫画家の父・岡本一平と作家の母・岡本かの子のもと、1911(明治44)年、神奈川県川崎市で生まれます。

1929(昭和4)年、今の東京芸術大学に入学。12月、両親がイギリスに取材旅行に出るため、同行します。

1930(昭和5)年、フランス・マルセイユ経由でパリに到着。両親と別れ、1人でパリに滞在します。まずは、リセに入学し、その後、パリ大学ソルボンヌ校で美学を学びました。

1932(昭和7)年、両親は日本に帰りますが、岡本太郎は1人、パリに残ります。ピカソの作品に衝撃を受け、絵を発表。カンディンスキー、ブランクーシ、モンドリアン、ドローネ夫妻などの芸術家がメンバーの、抽象絵画のグループに参加しました。

1936(昭和11)年、ジョルジュ・バタイユの演説に感銘を受け、抽象絵画のグループを脱会。

1937(昭和12)年、アンドレ・ブルトンに絵を評価されたこともあって、翌年からシュールレアリストと仲良くなります。同じ年、パリ大学で民族学を学びました。

1939(昭和14)年、母・岡本かの子が死去。

1940(昭和15)年、最後の引き上げ船で日本に帰国しました。

1942(昭和17)年、中国に出兵。1年間の捕虜生活を送った後、1946(昭和21)年、日本に戻りました。

1948(昭和23)年、前衛芸術家集団「夜の会」に参加。同じ年に、「アヴァンギャルド芸術研究会」を発足し、のちに養女となる岡本敏子とも出会いました。10月に、父の岡本一平が亡くなります。

1951(昭和26)年、縄文土器を見て衝撃を受けます。

1952(昭和27)年、パリで展覧会を開いた後、南仏にあるピカソのアトリエも訪問しました。

1957(昭和32)年頃から、日本各地の取材をはじめ、雑誌に発表します。

1968(昭和43)年、メキシコ・オリンピックにあわせて開業するホテルのため、壁画「明日への神話」を制作。

1970(昭和45)年、大阪万博で太陽の塔などの作品を展示。その当時、太陽の塔は丹下健三が設計した建物を突き破るような状態で展示されていたそうです。今では建物は無く、太陽の塔が単独で残されています。

太陽の塔

1976(昭和51)年、キリンシーグラムの景品で、グラスの底に顔のあるグラスを作成。本人が出演するコマーシャルも話題になりました。

1981(昭和56)年、コマーシャルで叫んだ「芸術は爆発だ!」という言葉が、流行語大賞で賞を受賞します。

晩年まで、オブジェなど多くの作品を手がけた岡本太郎は、1996(平成8)年、84歳で亡くなりました。

坂倉準三について

坂倉準三は、1901(明治34)年、蔵元・千代菊の4男として岐阜に生まれます。

1927(昭和2)年、東京帝国大学文学部美術史学科美術史を卒業。

1929(昭和4)年、パリに行き、ル・コルビュジェのもとで働こうとしますが、建築は学んでいなかったため、まずはパリで2年間、建築を勉強します。

1931(昭和6)年、ル・コルビュジェの事務所に入所。事務所では前川國男とは入れ違いでしたが、1929年には、前川國男の名古屋市庁舎コンペの手伝いをしました。

1936(昭和11)年、いったん帰国。しかし、パリ万国博覧会の日本館の設計を依頼され、フランスに戻ります。

前川國男に比べ、ル・コルビュジェの事務所に長くいたのは、パリに行く前、佐野利器に相談したところ、建築を学んでいないと日本ではなかなか認められにくい、という助言を受けたためのようです。

文化学院の創立者・西村伊作の次女・ユリとは、一時帰国の際に出会い、パリに戻った際に再開しました。

1939(昭和14)年、日本に帰国。5月にユリと結婚し、アトリエ兼新居を建てます。

1940(昭和15)年、旧オーストリア領事館の建物に、坂倉準三建築研究所を設立します。その建物の2階には、
スメルクラブという事務所があり、坂倉準三のパリ時代の芸術家を中心とした友人が集っていました。その年、ル・コルビュジェ事務所の同僚だったシャルロット・ペリアンを日本に招聘します。

1951(昭和26)年、鎌倉・鶴岡八幡宮の敷地内に建つ神奈川県立近代美術館本館や東京・日仏会館が完成。坂倉準三は、後年、神奈川県立近代美術館の新館も手がけました。

坂倉準三は、建物だけでなく、新宿西口広場や渋谷駅周辺の都市計画なども行っています。

ル・コルビュジェが国立西洋美術館を建てる際には、ル・コルビュジェ事務所にいた前川國男・吉坂隆正と共にサポートを行いました。

1969(昭和44)年、亡くなります。

坂倉準三建築研究所には、かつて柳宗理も在籍していました。

昔の文化学院の建物を再現した軽井沢のルヴァン美術館では、6月10日から11月5日まで、「ル・コルビュジェと西村伊作」展が開催され、坂倉準三の建築作品も紹介されることになっています。

岡本太郎と坂倉準三との関わり

岡本太郎と坂倉準三は同じ時期にパリに滞在していて、岡本太郎がル・コルビュジェ事務所を訪問したこともあり、その頃から友人でした。

1952(昭和27)年には、坂倉準三が設計した日本橋高島屋の地下通路に、岡本太郎が壁画を制作しています。
1953(昭和28)年には、国際デザインコミッテイー(現在の日本デザインコミッテイー)への参加を坂倉準三が岡本太郎に呼びかけました。

1954(昭和29)年、コンクリートブロック造りの岡本太郎の自宅兼アトリエ(現在の岡本太郎記念館)が完成します。

岡本太郎が坂倉準三にアトリエを依頼する際につけた条件は、広い空間があればいい、というものだったそうです。岡本太郎は、坂倉準三と現場担当者の村田豊が激論を戦わせる姿を微笑ましく眺めていたのだとか。

岡本太郎記念館は、半分が吹き抜け、半分が2階建てになっている家で、柱も一本も使用されていません。屋根は凸型レンズのような形で、ユニークなものでした。現在は左側にカフェなどが入る建物が、増築されています。カフェのテラス席では、庭の作品を見ながら一休みすることもできますよ。

岡本太郎記念館

岡本太郎記念館のアトリエには北側に大きな窓があり、天井が高いので大きな作品を制作することもできました。現在も岡本太郎が描いた絵がイーゼルに立てかけられ、絵の具などの道具もそのまま展示されています。

アトリエの手前のサロンには、岡本太郎に瓜二つの人形が飾られている他、メキシコの巨大な生命の樹なども飾られています。館内や庭の彫刻は、入場すれば自由に撮影することが可能です。

川崎にある岡本太郎美術館では、7月2日まで「岡本太郎×建築」展が開催中で、岡本太郎邸の展示も見ることができます。

【参考文献】
「この人を見よ!歴史をつくった人びと伝5 岡本太郎」
「岡本太郎 挑む/夢と誓い(抄)」
「もっと知りたい岡本太郎 生涯と作品」
「素顔の大建築家たち01」
「現代日本建築家全集11 坂倉準三 山口文象とRIA」
「きれいな風貌 西村伊作伝」
「週末を楽しむ 東京の小さな美術館・博物館2002年版」

【画像】
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