横山大観記念館は上野の隠れアートスポット

横山大観記念館は上野の隠れアートスポット

横山大観記念館は、上野恩賜公園からは不忍池をはさんだ反対側にあるため、絵画鑑賞に興味のある方でも、なかなか立ち寄らないスポットかもしれません。

上野恩賜公園の喧騒から離れ、ちょっとゆっくりするのにおすすめなスポットです。

横山大観について

横山大観

横山大観は1868(明治元)年、水戸藩士の家に誕生しました。

1878(明治11)年、伯父を頼って家族で東京に移住。現在の日比谷高校に進んだ横山大観は、成績が優秀なため、半年早く卒業しました。

その後、東京大学予備門を受験しますが、大学予備門付属の英語専修科も同時に受験していたことが問題となり、合格していたにも関わらず入学取消になります。

入学していたならば、横山大観は東京大学の工科に進み、建築家になる予定だったそうです。

日本画家・横山大観はこの事件がなかったら生まれていなかったのかもしれません。

東京大学予備門の代わりに、私立の東京英語学校に入学した横山大観。のちのち、この英語力が役に立つことになります。

東京英語学校を卒業する頃、東京美術学校(現在の東京芸術大学)が開校することを知り、1889(明治22)年、東京美術学校に1期生として入学。そこで、校長の岡倉天心と出会います。

大学を卒業した後、竹内栖鳳と共に現在の京都市立芸術大学の教員などを経験してから、東京美術学校の助教授になりますが、1898(明治31)年、岡倉天心が辞職に追い込まれた影響で、多くの教授・助教授と共に大学をクビになってしまいました。

同じ年、岡倉天心は美術団体・日本美術院を設立し、横山大観も参加します。

1902(明治36)年、岡倉天心のすすめで菱田春草と一緒にインドを訪問。翌年には岡倉天心や菱田春草らと、ボストン美術館での仕事のため渡米し、ニューヨークやロンドンで展覧会を開催後、帰国します。

横山大観は、輪郭線を描かずにぼかす「朦朧体」という表現方法などに取り組む中で、独自の作風を生み出しました。

それまではあまり国内では評価されていなかった横山大観ですが、1907(明治40)年、明治政府が主催する文展(現在の日展)の審査員に岡倉天心の推薦で決まったことで、芸術家として一躍脚光を浴びることになります。

岡倉天心の死後、衰退していた日本美術院を下村観山・木村武山と一緒に再び盛り上げようとした横山大観。同人の作品を頒布会で販売したり、東海道を歩きながらスケッチして展覧会を開いたりし、運営資金を稼ぎました。

1923(大正12)年、人生を絵巻に描いた代表作「生々流転」を完成。

富士山を描いた作品も多く残しました。

1957(昭和32)年、90歳で亡くなります。

横山大観記念館について

横山

横山大観記念館は、横山大観が住んでいたアトリエ兼住居を使用した施設です。

この家は、1954(昭和29)年、横山大観が86歳の時に完成しました。もともと、1909(明治42)年からこの場所に住んでいたのですが、1945(昭和20)年、爆撃により家を消失。新しい家は、残った土台を利用し、以前の家を再現して建てられました。

横山大観記念館の建物(木造の数寄屋造り)と庭園のデザインは、横山大観が自ら手がけています。

2階のアトリエからは不忍池が臨めるだけでなく、中庭も見ることができますよ。階段を上るのが大変になってからは、1階の第2客間をアトリエ代わりに利用していたそうです。

館内では、芸術家・横山大観の作品を鑑賞することもできます。

北側に残っている蔵は、大正時代のものだそうです。

横山大観に関するエピソードあれこれ

以前の横山大観邸では、中国旅行に行った際に買ってきたロバを飼っていたのですが、近所から鳴き声に苦情があり、上野精養軒にロバを譲ったそうです。横山大観は、ロバに乗って近所の馬場まで移動することもあったのだとか。それ以外にも、犬や猿、くじゃくなども飼ったことがあるそうです。

お酒が大好きで、多くの芸術家と交流した社交的な横山大観。客間・鉦鼓洞(しょうこどう)の真ん中には囲炉裏があり、熱燗をしてお客さんをもてなしました。

横山大観は、襖絵や天井絵など、多くの建物にも作品を残しています。1931(昭和6)年、社殿を建て直した下谷神社には龍の天井絵を残しました。横山大観は、この絵に対するお礼をそのまま奉納し、その代わりにお酒をいっぱい持ってきて、と頼んだそうです。そのため、神社や氏子が集まり、横山大観邸で大宴会が開かれました。

日本のバルビゾンを目指し、岡倉天心が横山大観ら日本美術院のメンバーと移り住んだ茨城県の五浦(いづら)。ここには、岡倉天心が設計した六角堂(東日本大震災で流失し、その後再建)があるだけでなく、横山大観の別荘も残されているんです。

横山大観旧別荘は、貸切露天風呂を新設して、五浦観光ホテルの特別室として宿泊できるようになりました。室内には、横山大観が愛用したものを展示しているスペースもあります。

東京の家が消失していた時期、横山大観は熱海の伊豆山の別荘に住んでいましたが、大観荘をオープンする以前のご主人と仲良くなり、旅館に「大観荘」の名をつけることを快諾したそうです。現在も、横山大観が絵を描いた部屋は、「大観の間」として宿泊ができるようになっています。

【参考文献】
「別冊太陽 横山大観」
「自転車で東京建築さんぽ 明治・大正・昭和篇」

【画像】
http://taikan.tokyo/index.html

サイト運営者紹介

弊社では、そのほかにも住居に関わるサイトの運営を行っています。
それが、家賃滞納に関する問題を取り扱ったこちらのサイトです。
家賃が払えない! 家賃滞納すると、内容証明、裁判、強制退去? http://kyoto-ninbai.com/

家賃が払えないで悩んでいる方、また家賃の支払いがなく困っている大家さんなど、広く参考にしていただければと思います。
放置しておくと、最悪裁判にもなりかねないため、賃貸マンション、アパートの方は十分にご注意願います。

弊社では、これから住居や暮らしに関わるサイトを運営してまいります。

前川國男邸は、戦争中だったからできた家だったのかも!?

前川國男邸は、戦争中だったからできた家だったのかも!?

前川國男邸は、江戸東京たてもの園の中に移築保存された家です。三角屋根の木のおうちは、どこか和風な山小屋のような雰囲気を感じさせます。

前川

小さいのにいろいろ工夫が凝らされた前川國男邸。ぜひ、一度訪れてみてください。

前川國男について

前川國男は1905(明治38)年、新潟に長男として誕生。父は内務省の土木技師でした。母は弘前出身です。三男の春雄は、日銀総裁になりました。

前川

1909(明治42)年、父の転勤にともない、東京に引っ越します。翌年には、すでに建築家になろうという夢を持っていました。高校時代には、音楽にも深く興味を持ちます。

1925(大正14)年、東京帝国大学工学部建築学科に入学。同級生には谷口吉郎などがいます。兵役検査を受けますが、偏平足のため兵役を免除され、第二次世界大戦中も戦いに参加することはありませんでした。

1928(昭和3)年、大学を卒業してから、運賃の安いシベリア鉄道経由でパリに向かいます。着いた翌日から、ル・コルビュジェのアトリエで働くことに。2年勤務した後に、日本に帰国します。

1930(昭和5)年、アントニン・レーモンドの事務所に入社。最初に前川國男の名前で手がけた作品は、弘前の木村産業研究所です。この収入を事務所に全額譲ったことで、午後3時からの時間をコンペ作品にあてることができるようになりました。

ちなみに、アントニン・レーモンドの妻・ノエミは、前川國男が中学(現在の日比谷高校)時代に英語を習った先生だったそうです。

1935(昭和10)年、アントニン・レーモンドと仲違いし、事務所を辞めた翌日に事務所をつくります。

1938(昭和13)年、事務所に丹下健三が入社。

1941(昭和16)年、目黒の自宅が完成します。この建物が、現在、江戸東京たてもの園の中にある前川國男邸です。

この年上海で、ル・コルビュジェのアトリエ時代一緒だった、デザイナーのシャルロット・ペリアンに再会します。シャルロット・ペリアンは坂倉準三ともル・コルビュジェのアトリエで仕事しました。

1945(昭和20)年、本郷にあった実家と銀座の事務所を東京大空襲で焼失。その後10年間、目黒の自宅を事務所としても使うことになります。

1947(昭和22)年、新宿に木造2階建ての紀伊国屋書店を建てます。1964(昭和39)年に建て替えられた現在の紀伊国屋書店も、前川國男の作品です。

また、団地好き、建築好き双方から親しまれている「阿佐ヶ谷住宅」のうち、低層傾斜屋根型テラスハウスの174戸は前川國男建築設計事務所が設計しました。

阿佐ヶ谷

1954(昭和29)年、コンペで当選した神奈川県立図書館・音楽堂が完成。神奈川県立音楽堂の内部には木が使われ、
音響効果が素晴らしいことで知られています。その後、京都会館や東京文化会館などのコンサートホールも手がけました。

ちなみに、わたしは大学の受験勉強を神奈川県立図書館の学習室でしていたので、懐かしいです。隣の神奈川県立青少年センターも前川國男の作品で、社会科見学や中学校の部活動講習会などでも利用していました。

1955(昭和30)年、国立西洋美術館建設のために来日したル・コルビュジェの設計に協力します。1979(昭和54)年にできた国立西洋美術館新館は、前川國男の作品です。

国立西洋美術館

1959(昭和34)年、日本建築家協会会長に就任。

1973(昭和48)年には、景観論争などにより難航した、東京海上火災保険会社本社ビルが完成。

1986(昭和61)年、81歳で亡くなりました。

前川國男が中学時代にはまった芸術家は、音楽家の梁田貞。大人になってからはバルトークにもはまりました。

昨年(2016年)、岡山で開催された「岡山芸術交流」というイベントでは、自ら建築した岡山県庁の周りに「前川國男のことば」という展示が行われ、プチ芸術家としても活躍(?)しました。

美術学校に進み、画家になろうとしていたル・コルビュジェの弟子だったので、前川國男も芸術家的センスを持った建築家と言えるのかもしれません。

前川國男邸について

前川國男邸が完成したのは1941(昭和16)年のこと。

1939(昭和14)年に、木造建物建築統制規則という法律が制定されます。この法律は延べ床面積100平方メートル(30坪)以上の建物を建ててはいけない、という法律でした。

前川國男邸は、広さに制限がありながらもコンパクトに機能が詰まった家になっています。南側がガラス張りなので明るく、吹き抜けの天井は開放感を感じさせます。

わたしが一番驚いたのは、玄関からリビングに入る際のドアが、かなり大きいサイズだったのにも関わらず異様に軽かったことです。こんな軽さでいいの!みたいな気持ちになりました。階段もスケルトンタイプなので、見た目に軽さを感じます。

コンパクトなこの家は、戦後の10年間、事務所代わりにもなりました。前川國男夫妻は、寝室以外にプライベートスペースが無くて困ったそうです。

1973(昭和48)年、前川國男邸は解体され、1997(平成8)年、江戸東京たてもの園にオープンしました。

江戸東京たてもの園について

江戸東京たてもの園は、江戸東京博物館の分館として、1993(平成5)年、東京都小金井市にオープンしました。

マスコットキャラクターを手掛けたのは、小金井の名誉市民でもある宮崎駿です。

主に、江戸時代から昭和までの東京の建築を移築し、野外展示している博物館で、園内には武蔵野うどんが食べられるレストランや洋館を使ったカフェもあります。

主な建物にはボランティアガイドがいるため、詳しいお話を聞くことができます。わたしが行った時は見学者がたまたまいなかったため、前川國男邸のガイドさんとかなり長い時間話し込んでしまいました。

高橋是清邸のガイドさんには、2階の窓際から宮崎駿監督がスケッチしていたという話を伺いましたし、三井八郎右衞門邸のガイドさんは熱い方で、質問にも熱心に答えてくださいました。

ビジターセンター内の展示室では、5月30日から9月10日まで特別展「世界遺産登録記念 ル・コルビュジエと前川國男」が開催される予定なので、こちらもお見逃しなく。

【参考文献】
「一建築家の信條」
「コミュニティ・ミュージアムへ 「江戸東京たてもの園」再生の現場から」

【画像】
https://www.photo-ac.com/

吉屋信子記念館で吉田五十八の数寄屋建築に触れてみましょう!

吉屋信子記念館で吉田五十八の数寄屋建築に触れてみましょう!

吉屋信子記念館は、吉屋信子の自宅だった建物を利用してオープンしました。ちょっと奥まった場所にあるので、なかなか穴場な観光スポットでもあります。

吉屋信子記念館

旧前田侯爵邸である鎌倉文学館からほど近いので、庭園見学を楽しんだ後に訪れて見てはいかがですか。

吉屋信子について

吉屋信子は1896(明治29)年、新潟市で生まれました。6歳で栃木県に転居。学生時代から雑誌に小説を投稿していました。

両親に大学進学を反対されますが、兄を頼って上京し、雑誌の投稿を繰り返し、採用されるようになります。

1916(大正5)年、少女小説「花物語」の第1話を発表。52話まで連載が続きました。この本は、1939(昭和14)年に発売された版の表紙を中原淳一が手がけたことで知られています。吉屋信子の代表作の一つです。

花物語

1926(昭和元)年、生涯のパートナーとなる門馬千代と同居を開始。

1928(昭和3)年、小説の印税で門馬千代と大連・パリ・イタリア・イギリス・アメリカを巡り、1年ぶりに帰国します。パリでは藤田嗣治の家を何回か訪れました。

1936(昭和11)年、姦通罪をテーマにした家庭小説「良人の貞操」がベストセラーに。

1938(昭和13)年から、従軍作家として、中国・インドネシア・ベトナムなどに赴きます。女性の従軍作家は、吉屋信子以外では林芙美子くらいで、かなり珍しい存在だったようです。

1944(昭和19)年、東京の自宅から鎌倉の大仏裏にある別荘に疎開。翌年、東京の家は空襲で焼失してしまいます。

1951(昭和26)年、歴史小説「安宅家の人々」を毎日新聞に連載。

1962(昭和37)年、現在、吉屋信子記念館になっている自宅を建て、引っ越します。

1973(昭和48)年没。お墓は大仏のある高徳院にあり、建築家・谷口吉郎が設計しました。

1974(昭和49)年、鎌倉市に寄贈された自宅が、吉屋信子記念館としてオープンします。

2007年、70年の歴史を閉じた「女流文学者会」では、宇野千代や佐田稲子と共に中心的な役割を果たしました。

吉田五十八について

吉田五十八は1894(明治27)年、東京日本橋に5男として生まれました。父は太田胃酸の創業者で、五十八という名前は父が58歳の時に生まれたから、という理由でつけられました。

母方の姓が途絶えるのを防ぐため、15歳の時、吉田家の養子になります。

1915(大正4)年、現在の東京芸術大学美術学部に入学し、建築を学びます。同級生には画家の山口蓬春もいて、後年、自宅兼アトリエを増改築することに。現在、その自宅は山口蓬春記念館として一般公開されています。

1923(大正12)年、病気などにより8年かけて大学を卒業。事務所を開きますが、関東大震災が発生し自宅も焼失したことでヨーロッパ行きを決断します。

1925(大正14)年、ヨーロッパやアメリカを回り、ルネッサンス建築やゴシック建築を見たことで、外国建築に対抗するには和風建築しかない、と作風を変更。

今までの日本家屋(数寄屋造り)を、西洋建築のような軽さを出しながら建てた先駆者である吉田五十八。和風建築に洋間を取り入れたり、防火にも気を使ったり、新しい試みをいろいろ行いました。

吉田五十八は芸術家や文化人、政治家などの自宅やアトリエを建てただけではなく、歌舞伎座、成田山新勝寺本堂、芥川賞や直木賞の発表の場として有名な新喜楽や金田中など料亭の建築も手掛けています。

長唄や小唄は本業レベルで、歌舞伎座の舞台に立っただけでなく、舞台美術を担当したこともあります。

東京芸術大学の名誉教授にもなった吉田五十八は、1974(昭和49)年、79歳で亡くなりました。

吉屋信子邸と吉田五十八の関わり

吉屋信子

吉田五十八は、芸術家のアトリエをたくさん建てています。

神奈川県中郡二宮町には吉田五十八の自宅が現在も残されていて、毎年秋に開催されている湘南邸園文化祭では、日本画家である山川秀峰(息子は小説家の山川方夫)の別荘と共に公開されたことも。

他にも、鏑木清方の自宅、川合玉堂のアトリエ、小林古径の自宅など、多くの芸術家の家を手がけています。

吉屋信子は3回、吉田五十八に建築を依頼しましたが、そのきっかけは小林古径の家を見たことだそうです。吉田五十八と同じくヨーロッパに行ったことで、吉屋信子は和風建築の良さに気付くようになりました。

1935(昭和10)年、牛込区砂土原町(現在の市谷砂土原町)に建てた家は、洋風なキッチンや、イスとテーブルを使った書斎など、和と洋が融合した建築でしたが、東京大空襲で焼失してしまいます。

1950(昭和25)年、千代田区麹町に新たな家を建て、1962(昭和37)年、鎌倉に転居するため、吉屋信子記念館として使われている家を建てました。

66歳になった吉屋信子は、鎌倉の家を奈良にある尼寺のような感じの家にしたい、と吉田五十八に依頼しました。

吉屋信子記念館の北向きにある書斎の窓からは藤棚が見え、南側には庭が広がります。じゅうたん敷きにイスとテーブルという応接室ですが、あまりモダンな印象ではなく、落ち着いて過ごせそうな雰囲気の空間でした。

吉屋信子記念館

大通りから離れた住宅街に建っているので、静かで仕事も進みそうな感じの家です。現在は吉屋信子記念館の斜め前くらいに、こけしとマトリョーシカの専門店「コケーシカ」があります。

吉屋信子記念館は春と秋に公開されていますが、日にちが限られるため、鎌倉市のWebページで予定をチェックしてから出かけてみてください。

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/gakusyuc/yoshiya-koukai.html#ippannkoukai

【参考文献】
「建築家吉田五十八」
「惜櫟荘だより」
「生誕110年 吉屋信子展-女たちをめぐる物語」

【画像】
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/gakusyuc/yoshiya-koukai.html#ippannkoukai
https://www.amazon.co.jp/

岡本太郎記念館で岡本太郎のパワーに触れてみよう!

岡本太郎記念館で岡本太郎のパワーに触れてみよう!

 

岡本太郎記念館は、青山の骨董通りから一本裏手の通りに建つ、岡本太郎の自宅兼アトリエだった建物を利用したミニ美術館です。

岡本太郎記念館

館内や庭に飾られた岡本太郎のアート作品を見たら、きっと元気になること間違いなしです。

岡本太郎について

岡本太郎は、漫画家の父・岡本一平と作家の母・岡本かの子のもと、1911(明治44)年、神奈川県川崎市で生まれます。

1929(昭和4)年、今の東京芸術大学に入学。12月、両親がイギリスに取材旅行に出るため、同行します。

1930(昭和5)年、フランス・マルセイユ経由でパリに到着。両親と別れ、1人でパリに滞在します。まずは、リセに入学し、その後、パリ大学ソルボンヌ校で美学を学びました。

1932(昭和7)年、両親は日本に帰りますが、岡本太郎は1人、パリに残ります。ピカソの作品に衝撃を受け、絵を発表。カンディンスキー、ブランクーシ、モンドリアン、ドローネ夫妻などの芸術家がメンバーの、抽象絵画のグループに参加しました。

1936(昭和11)年、ジョルジュ・バタイユの演説に感銘を受け、抽象絵画のグループを脱会。

1937(昭和12)年、アンドレ・ブルトンに絵を評価されたこともあって、翌年からシュールレアリストと仲良くなります。同じ年、パリ大学で民族学を学びました。

1939(昭和14)年、母・岡本かの子が死去。

1940(昭和15)年、最後の引き上げ船で日本に帰国しました。

1942(昭和17)年、中国に出兵。1年間の捕虜生活を送った後、1946(昭和21)年、日本に戻りました。

1948(昭和23)年、前衛芸術家集団「夜の会」に参加。同じ年に、「アヴァンギャルド芸術研究会」を発足し、のちに養女となる岡本敏子とも出会いました。10月に、父の岡本一平が亡くなります。

1951(昭和26)年、縄文土器を見て衝撃を受けます。

1952(昭和27)年、パリで展覧会を開いた後、南仏にあるピカソのアトリエも訪問しました。

1957(昭和32)年頃から、日本各地の取材をはじめ、雑誌に発表します。

1968(昭和43)年、メキシコ・オリンピックにあわせて開業するホテルのため、壁画「明日への神話」を制作。

1970(昭和45)年、大阪万博で太陽の塔などの作品を展示。その当時、太陽の塔は丹下健三が設計した建物を突き破るような状態で展示されていたそうです。今では建物は無く、太陽の塔が単独で残されています。

太陽の塔

1976(昭和51)年、キリンシーグラムの景品で、グラスの底に顔のあるグラスを作成。本人が出演するコマーシャルも話題になりました。

1981(昭和56)年、コマーシャルで叫んだ「芸術は爆発だ!」という言葉が、流行語大賞で賞を受賞します。

晩年まで、オブジェなど多くの作品を手がけた岡本太郎は、1996(平成8)年、84歳で亡くなりました。

坂倉準三について

坂倉準三は、1901(明治34)年、蔵元・千代菊の4男として岐阜に生まれます。

1927(昭和2)年、東京帝国大学文学部美術史学科美術史を卒業。

1929(昭和4)年、パリに行き、ル・コルビュジェのもとで働こうとしますが、建築は学んでいなかったため、まずはパリで2年間、建築を勉強します。

1931(昭和6)年、ル・コルビュジェの事務所に入所。事務所では前川國男とは入れ違いでしたが、1929年には、前川國男の名古屋市庁舎コンペの手伝いをしました。

1936(昭和11)年、いったん帰国。しかし、パリ万国博覧会の日本館の設計を依頼され、フランスに戻ります。

前川國男に比べ、ル・コルビュジェの事務所に長くいたのは、パリに行く前、佐野利器に相談したところ、建築を学んでいないと日本ではなかなか認められにくい、という助言を受けたためのようです。

文化学院の創立者・西村伊作の次女・ユリとは、一時帰国の際に出会い、パリに戻った際に再開しました。

1939(昭和14)年、日本に帰国。5月にユリと結婚し、アトリエ兼新居を建てます。

1940(昭和15)年、旧オーストリア領事館の建物に、坂倉準三建築研究所を設立します。その建物の2階には、
スメルクラブという事務所があり、坂倉準三のパリ時代の芸術家を中心とした友人が集っていました。その年、ル・コルビュジェ事務所の同僚だったシャルロット・ペリアンを日本に招聘します。

1951(昭和26)年、鎌倉・鶴岡八幡宮の敷地内に建つ神奈川県立近代美術館本館や東京・日仏会館が完成。坂倉準三は、後年、神奈川県立近代美術館の新館も手がけました。

坂倉準三は、建物だけでなく、新宿西口広場や渋谷駅周辺の都市計画なども行っています。

ル・コルビュジェが国立西洋美術館を建てる際には、ル・コルビュジェ事務所にいた前川國男・吉坂隆正と共にサポートを行いました。

1969(昭和44)年、亡くなります。

坂倉準三建築研究所には、かつて柳宗理も在籍していました。

昔の文化学院の建物を再現した軽井沢のルヴァン美術館では、6月10日から11月5日まで、「ル・コルビュジェと西村伊作」展が開催され、坂倉準三の建築作品も紹介されることになっています。

岡本太郎と坂倉準三との関わり

岡本太郎と坂倉準三は同じ時期にパリに滞在していて、岡本太郎がル・コルビュジェ事務所を訪問したこともあり、その頃から友人でした。

1952(昭和27)年には、坂倉準三が設計した日本橋高島屋の地下通路に、岡本太郎が壁画を制作しています。
1953(昭和28)年には、国際デザインコミッテイー(現在の日本デザインコミッテイー)への参加を坂倉準三が岡本太郎に呼びかけました。

1954(昭和29)年、コンクリートブロック造りの岡本太郎の自宅兼アトリエ(現在の岡本太郎記念館)が完成します。

岡本太郎が坂倉準三にアトリエを依頼する際につけた条件は、広い空間があればいい、というものだったそうです。岡本太郎は、坂倉準三と現場担当者の村田豊が激論を戦わせる姿を微笑ましく眺めていたのだとか。

岡本太郎記念館は、半分が吹き抜け、半分が2階建てになっている家で、柱も一本も使用されていません。屋根は凸型レンズのような形で、ユニークなものでした。現在は左側にカフェなどが入る建物が、増築されています。カフェのテラス席では、庭の作品を見ながら一休みすることもできますよ。

岡本太郎記念館

岡本太郎記念館のアトリエには北側に大きな窓があり、天井が高いので大きな作品を制作することもできました。現在も岡本太郎が描いた絵がイーゼルに立てかけられ、絵の具などの道具もそのまま展示されています。

アトリエの手前のサロンには、岡本太郎に瓜二つの人形が飾られている他、メキシコの巨大な生命の樹なども飾られています。館内や庭の彫刻は、入場すれば自由に撮影することが可能です。

川崎にある岡本太郎美術館では、7月2日まで「岡本太郎×建築」展が開催中で、岡本太郎邸の展示も見ることができます。

【参考文献】
「この人を見よ!歴史をつくった人びと伝5 岡本太郎」
「岡本太郎 挑む/夢と誓い(抄)」
「もっと知りたい岡本太郎 生涯と作品」
「素顔の大建築家たち01」
「現代日本建築家全集11 坂倉準三 山口文象とRIA」
「きれいな風貌 西村伊作伝」
「週末を楽しむ 東京の小さな美術館・博物館2002年版」

【画像】
著者撮影
https://pixabay.com/

ディエゴ リベラとフリーダ カーロの家は、建物も魅力的!

ディエゴ リベラとフリーダ カーロの家は、建物も魅力的!

ディエゴ リベラとフリーダ カーロの家は、画家のディエゴ リベラ・フリーダ カーロ夫妻が、自宅兼アトリエとした場所です。

カラフルな2棟からなる住宅は、フリーダ カーロ博物館に比べると訪れる人が少なめですが、建築に興味がある方ならば、ぜひ訪れたいスポットです。

フリーダ カーロについて

フリーダ

夫・ディエゴ リベラのほうが、年上で、生きている当時は有名であったと思います。しかし、現在、世界的により芸術家として知られているのは、妻のフリーダ カーロです。

フリーダ カーロは、1907年、メキシコシティのコヨアカン地区でドイツ人の父とメキシコ人の母のもと、4人姉妹の3女として誕生。一家は、現在はフリーダ カーロ博物館となっている青い家で暮らしていました。

学業優秀だったフリーダ カーロですが、小児麻痺があったため、同級生から、からかわれたりしたこともあったようです。

15歳の時、女子学生の割合が非常に少ない、難関校・国立予科高等学校に入学。

16歳の時、9人組グループ・カチュチャスの仲間だった、のちに弁護士・ジャーナリストとなるアレハンドロ・ゴメス・アリアスと恋人同士になります。

この頃、カチュチャスのメンバーは、学校の講堂で壁画を描いていたディエゴ リベラの様子を見に行ったり、からかったりもしていたようです。

18歳の時、アレハンドロ・ゴメス・アリアスと一緒に乗っていたバスが事故にあい、フリーダ カーロは重傷に。
生前の手術は30回以上に及び、ギブスやコルセットを常にはめていなければならない生活を送ることになりました。フリーダ カーロ博物館には、フリーダ カーロがはめていたギブスに描いた絵も残されています。

フリーダ

無傷だったアレハンドロ・ゴメス・アリアスは、フリーダ カーロのもとを去りますが、フリーダ カーロは彼に手紙を出すことを、生きる励みにしていました。

その後、父のすすめで絵を描きだしたフリーダ カーロ。寝たきりだったフリーダ カーロのベッドの天蓋に鏡を母がつけたことで、アレハンドロ・ゴメス・アリアスのために自画像を描きはじめます。

1928年、歩けるようになり、ディエゴ リベラに絵に関する助言を受けに行ったことがきっかけとなり、翌年、ディエゴ リベラと結婚。ディエゴ リベラは3回目の結婚で、年の差は20歳でした。

ディエゴ リベラは浮気癖があり、妹のクリスティナとも関係を持ちました。フリーダ カーロは事故の後遺症で子供が産めないこともあり、心に傷を負います。その感情を芸術家として絵に昇華させると共に、自らも芸術家・イサム ノグチや革命家・トロツキーと浮気をすることに。

ニコラス・ムライとは本気になり、離婚のきっかけにもなりました。しかし、離婚の翌年、ディエゴ リベラと再婚。1954年、47歳で亡くなります。

ディエゴ リベラは、フリーダ カーロの死後、フリーダ カーロのアトリエとして使われていた青い家を、メキシコ市に寄贈。1957年、ディエゴ リベラは亡くなり、1958年、青い家はフリーダ カーロ博物館としてオープンします。

フリーダ カーロの作品を見るならば、ドローレス・オルメド・パティニョ美術館もおすすめします。作品が貸し出し中のこともあるので、webページで事前にチェックしてから出かけてみてください。

フアン・オゴルマンについて

フアン・オゴルマンは1905年生まれ。メキシコシティのコヨアカン地区に、アイルランド人の画家である父のもと生まれました。父の影響で絵を描いていましたが、メキシコ国立自治大学で建築を専攻します。

最初のうちはル・コルビュジェに影響を受けた建物を造っていました。その時期の代表作が、ディエゴ リベラとフリーダ カーロの家です。

1930年代半ばに壁画家として活躍するようになり、メキシコシティ空港の壁画を手がけます。

1950年代、建築の世界に戻ってきたフアン・オゴルマンは、彼の代表作であるメキシコ国立自治大学図書館のモザイク壁画を完成。また、洞窟のような自宅も造ります。ディエゴ リベラが私費を投じた・アナワカリ博物館も、フアン・オゴルマンの手によるものです。

1960-70年代には、チャプルテペック城にある国立歴史博物館の壁画も制作し、1982年に亡くなります。

メキシコシティに残っている、オゴルマンが初期に造った家は、現在、Airbnb経由で宿泊することができますよ。

ディエゴ リベラとフリーダ カーロの家について

フリーダ・ディエゴ

ディエゴ リベラとフリーダ カーロの家は、1931年、ディエゴ リベラが26歳だったフアン・オゴルマンに依頼し、1932年、完成しました。ディエゴ リベラがフアン・オゴルマンに依頼しようと思ったきっかけは、彼が1929年に完成させた自宅を見たことです。

ディエゴ リベラとフリーダ カーロの家は、カラフルな四角い2つの建物、という印象が強いのですが、ル・コルビュジェの影響が強く感じられる建物です。

この建物は、パリでル・コルビュジェが建てた、画家・オザンファンのアトリエを参考にして建てられました。オザンファンはル・コルビュジェと共同で雑誌を発刊していたそうです。

オザンファンのアトリエには、のこぎり屋根やらせん状の外階段など、ディエゴ リベラとフリーダ カーロの家の要素が多く含まれています。建物のカラーリングは、世界遺産に選ばれたペサックの集合住宅にもちょっと似ているようです。でも、メキシコらしく赤や青など、よりカラフルな色が使われています。

北向きの大きな窓とのこぎり屋根のでこぼこが特徴的なディエゴ リベラのアトリエ。巨大なはりぼてのような、オーバーオールを着た人形も目にとまります。他にも、
ディエゴ リベラのコレクションがいっぱい飾られていますよ。

アトリエは2フロアが吹き抜けになっていて、ディエゴ リベラが大作を描くのにも便利なサイズになっています。

フリーダ カーロの家は、ディエゴ リベラの家よりも小さいサイズで、2つの家は橋のような通路でつながっています。入口はそれぞれの家についているため、プライベートも保てるようになっていました。

コヨアカンのフリーダ カーロ博物館からサンアンヘルにあるディエゴ リベラとフリーダ カーロの家まで、約30-40分離れているのですが、わたしは歩いて訪問しました。

コヨアカンもサンアンヘルも、メキシコシティの中ではおしゃれな高級住宅地で雰囲気が良かったです。タクシーで移動するのもありですが、時間があったら散歩がてら移動するのも良いですよ。

ディエゴ リベラとフリーダ カーロの家の近くには、“futon”という看板がかかった店やミニショッピングセンターもありました。カラフルな町並みやウィンドショッピングも楽しむことができます。そういえば、アナワカリ博物館のそばには”kumon”の看板もありましたよ。
(2006年10月時点の情報です)

【参考文献】
「地球の歩き方 2015-16 メキシコ」
「世界の建築・町並みガイド6 アメリカ・カナダ・メキシコ」
「フリーダ・カーロのざわめき」

【画像】
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